言えた言葉以上に聞こえた言葉はそっとふたりを恋へ誘うようなワンダーワード i say something and you hear more than that, it’s wonder words that make us fall in love 増えた言葉は全部、消えた言葉は全部、ふたりの恋を祝うようなワンダーワード i speak too much and forget to say my love, it’s wonder words that makes us bright ワンダーワード、言葉の奇蹟! wonder words, it’s amazing!
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言葉は不思議なものだ、人から与えられた言葉ではなく、自分の言葉で語りたい、もちろん完全にオリジナルなものはないけれど
全く話は変わって生きるにおいて「サイン」「流れ」というものがあると思う、明示的には示されなくても、そうしなさい、という大いなる意志のようなもの これに逆らってしまうとよくない、本当に逆らいまくった(全てを拒否した)1年でした 頑固さに拍車がかかってしまった、優柔不断な頑固
或る友人が「つまらなくなるのは簡単」と言った。その時は、そう簡単につまらなくなる(僕は、人間が情熱を失う、あるいは他責的になる、という意味にとらえた)ものかと、悩んでいるうちはつまらなくならない、一生悩みは消えないと思っていたので、いたが、甘かった
悩み、あるいは優柔不断さというものを抱えるには必然的に脳のリソースを食う、リソースがゼロになってしまうと、社会生活を営めなくなる、したがって、社内生活を営むためにある人はつまらなくなっていく。これは諦めでしかない
あなたの横にもいる活力を無くしたおじさんは、あなた自身であり、かつてあなただったものであり、これからのあなたであり、パラレルワールドでのあなたであり、いや、おじさんだけではなく、すべての人は私であるかもしれなかったものである しかしこの考え方は俗世を生きるのにはあまり向いていないと思います
具体的に書くことは、心を傷つける行為であり、抽象的に書くことは、それから逃げる行為です。まだあなたは嘘をついていますね?ーーー>>そうです。でも多分嘘をつくことと、本当のことに気づかないふりをすることのどちらがマシなのだろうか。今のところは、嘘をついてでも本当のことを書こうとすることのほうがまだ明るく見えます。いま、あなたは深く潜ることを拒否して浅い海で泳いでいますね
あなたが何かについて語るとき、その語り方は必ず語られるものとあなたとの関係を抜きにしては語れません。やっぱり、話す、ということに興味があるかも知れない、これは、生産的な発見だね。接する情報量を落としていけば、もう少し楽になれるかな
日記というのは、誰に書いているかわからないから書けないのだ、と思いました。であれば、誰に書いているのか仮想でおけば良いのか。多分それは未来の自分というのが解なのだと思われる。が、そんな明るい気持ちにはなれません
私は歌を歌うのが好きです。歌を歌うというのは、歌うべき(歌われる<その昔、うたわれるものという作品がありましたね>)ものが決まっているから、私は歌えるのだということを書こうとしましたが、同じくスピーチ(即興)は苦手です。(違うわ。受け答えかな?)だからきっとそれだけではありません。でも朗読は多分できます。子供の頃、得意でした。そこからいくと、リズムが決まっているかどうかだと思いましたが、それも違いますね。不安になるとリズムがどんどん早くなって(早口)しまうのですよ。多分、自分が発話している間に他人からリアクションがあると想定されているかどうかです。例えば、スピーチで自分が笑いを取ろうとしたところで聴衆の反応が全くなかったら、あるいはたとえ反応があったとしても、自分が思ったより笑いが得られなければ、その瞬間に狂ってしまうタイプの人がいます。すなわち、私のことです。スピーチというのは、明示的に聞き手が想定されているので、(←オレはこの「明示的」という単語も嫌いだ、何が明示的なの明示的に示してほしい、明示的に示すってなんだ?頭痛が痛いの親戚か?早くおうちに帰ったほうがよろしい。)/// 一方、歌や朗読はその間に客がチャチャを入れることは想定されてない、いや、というより、歌は確かにそうかも知れないけど、「シーン」となることが全くない(=歌、私の場合はバンドなので特に)か、「シーン」としていることが当たり前(=朗読)か、であれば問題ない。ということは、それ以外のシーン(こっちはScene)でも「シーン」が自分にとって問題なければ(脚注:今最後に遡って書いてて若林の人間不信者による笑い中毒の話と会社でやったプレゼンの話を書きたいが眠すぎてもういいや) (今日、「単にレイヤーの高い具体」のことを「抽象」と呼んでいた人間がいて、憤りを感じずにはいられなかった、そんなものを抽象という言葉で表象するな、とブチギレたくなった。<嘘です>)文章を書くということは、矛盾を引き受けるということであり、他人に非難される覚悟を持つということだろう
あと、嘘についても興味がありますね、なぜ人だけが嘘をつくのか?というのは、陳腐なテーマに聞こえてしまいますが、どこかで読んだ気がするタイトルの本ですね
タイトルをワンダーワードにしてよかったね。話まとまってきてませんか?そうでもないですか。そうですか。多分これをチャットGPTに入れて、この人は何を考えていますか?と問えば、それなりの回答が返ってくると思いますよ。今、俺は令和ロマンの高比良くるま氏が言うところの「歯の前でしゃべる人間」になっている。あゝ、書けるジャないか、制限をかけていたのは自分だったのだ、鶏?ペンギン?の群れに囲まれて飛べないと思い込んだ鳩のように。綺麗な文章を書こうと思うのが間違いなのだ、否、文章を書こうと思うことが間違いなのだ、主語述語の関係がなんだ、係り受けがなんだ、てにをはがなんだ、そんなことを気にしているから人は語る言葉を持たなくなるんじゃないのか、子供は国語が、作文が嫌いになるんじゃないのか、おい、しっかりしてくれ、その言葉になるかならないかのマグマのようなものを無視しているから社会はおかしいことになるんじゃないのか?そういうのを無視してきた人間を俺は罰したい。そうだろ?意味のある文章なんてもう二度と書きたくないんだ、お前がわかればそれでいいだろ?(ただ自分が他人の文章を読む時は死ぬほど文構造が気になりますけどね<ここは粗品の声を当てる>)あでゆー(雀ゴロのずんだもん!!!!)
あと、ダブルスタンダードというものについて書きたい、それからアクセルとブレーキの話、意識と無意識の話、あと占いについて、また「行動指針」について、そして、「歌詞を書く」ということにモッっと向き合わないといけないだろう. そして、この意味不明な文章は脳内をできるだけリアルタイムに書き表したものなのでしょう、それをマグマのまま、おいておく、まずはね